絵を描いてダイエットして幸せに生きる

もしいきなりすぐ隣にいた友人知人が死んでしまったら?

さようならどこの誰だかわからない人

はい、どーも。管理人のサンマスターです。前回はインターネットの情報についての話をしました。

最近のホームページ情報量多くね?それも本筋と違う奴が

今回は、少し毛色の変わったお話をしようと思います。

この話は特定等を防ぐため、若干のフィクションを含んでいます。

「君は本日が最後の出勤です」
自分の隣にいた先輩が課長にそう言われたのを一言一句覚えている。
いつかこのブログで話したように、自分はごく最近農家から普通の会社員になったばかりだ。
新しく人間が入ってきたら、古い人間が出ていくのは当然の結果である。今の世の中に即日クビになるような企業があってたまるかと思うかもしれないが事実である。
いや、クビとは若干異なるか。このクビ宣告を受けた先輩は正確にはクビにはなっていない。うちの会社は中小企業で成果報酬型の企業である(自称)。つまり仕事がなければ収入がほぼ皆無。会社に属しているのにお金がもらえない。ある意味クビよりもひどい仕打ちである。
これが例えば窓際係長などといわれるような仕事はないけれど、会社の隅っこに干されている状況であるならば、自分はひどくその状況をうらやましがったであろう。え!?仕事しなくていいのにお金もらえるんすか!よっしゃぁ!みたいな感じで。
だがこの先輩は違う。文字通り飼い殺しという表現が最も適している状態である。
だが自分が気にしているところはそこではない。
別に管理人的には仕事の関係はそれはそれ。みたいな感じでやっているので、クビになった人間に対してはそこまで執着はない。あ、仕事最後なんすね。短い間でしたがお世話になりました。……的な。
だがしかし、この人は自分が入ってきたからクビになったようなものだ。極論自分がこの人を殺したようなものである。
しかもこの人は自分の研修担当であった。不慣れな自分になるべくわかりやすく仕事を教えるために、何度も何度も仕事方法を見せてくれた。失敗しても笑って許してくれたし、自分のミスも先輩が頑張って取り返してくれることもあった。
心の弱い自分にとって、この人は命の恩人のようなものだ。もし、研修担当が以前の職場のようなクソ人間であったら、この職場に適応できなかったのかもしれない。
彼は聖人だった。誰からも好かれていた。だが、殺した。肩を組んでいる手で相手を取り押さえ、もう片方の手で首を切った。
「もう教わることはない。じゃあな!」と言いながら相手を蹴落とす自分はまぎれもなく悪役であった。
自分ではどうすることもできない。それが分かっていても何とも言えない気持ちになった。
相手の方は後日話してもまったく気にしていないよ。と、言ってはいたもののやはり職探しには苦労したようだ。それでもしばらくして職を見つけ、元気にしているようだ。よかった。
この”よかった”は先輩に対してなのだろうか、それとも本当の殺人の片棒を担がなくてよかったという自分に対する安堵なのか。心の汚い自分にはわからなかった。
一方職場に残された方はというと、しばらくの間怪しい空気が漂っていた。
先輩は誰からも好かれる人であった。それは職場のお局様とて例外はない。お局様は先輩を我が子のようにかわいがっていた。先輩は有能でもあったため能力的にも、人柄的にも、ついでに外見的にも優れている人間だった。
だったからこそ、社長の奇怪な方針に異を唱えていたらしい。時代遅れなアナログな方法を好む社長はこの異物をさっさと排除したかったらしい。人手が増え先輩なしでも(表面上は)仕事が回るようになったと判断すると速攻で先輩を切った。
当然そのような背景はお局は把握していた。先輩が首を切られた数ヶ月は社長への陰口が止まらなかった。更に言えば機嫌が悪いせいで全く仕事がはかどらなかった。
それでも周囲はお局様の先輩への愛情のかけ方を知っていたため、どっちかというとお局擁護の雰囲気になっていた。
そんな中自分はどう思ったかというと、お局様は自分のことは恨んでいないのだろうかということだった。表面上はそんなにない。だが原因は自分にもあるのだ。
お局様に嫌われるということはその会社でいじめの対象になるということだ。今現在自分はお局様と心の距離を一定に保ちながら仕事をすることに苦心している。
これは余談だが、近々お局様が副社長に話をしたいといっていたそうな。どうか副社長の無事を祈りながら、翌日の朝刊に見知った名前が載っていないことを祈るばかりである。
さて、話が変わってタイトルにもあるように、自分の隣にいる人間がいきなり殺されたらどう思うか。という話をしようと思う。これは別に物理的に限らず、社会的に殺される場合も含む。
ここでは敢えて、どのように行動すべきかを考えていこうと思う。そうすることで、今後似たような状況が起こった時に、だれもが最小限の傷で済むと思うからだ。
例えば、あなたが友達のために買ってきたお菓子の原料の中に、本当にたまたま毒物が入っていたとする。友人は当然死ぬ。そのとき、あなたは「違う!私は何も悪くない!」と叫ぶのだろうか。それとも「私のせいだ!わあああああああ!!!」と自分を責めるのだろうか。
一見前者はなんて自分よがりな奴だ。後者は自分に責任を感じている。思いやりや責任といったものがあるように見えないこともない。
だが後者に関しては、本当に友達のことを思って出た言葉なのだろうか。これが例えばもし、死んだのではなくて、食中毒やただ単にお腹を下しただけとする。同じセリフでも、まったく同じ表情で言っているのであろうか。
「私があげた食べ物でお腹壊しちゃった★ごめんごめん」や「うげ。私のせいで食中毒かかっちゃったじゃん。うわー。もう二度とあれは買わないでおこう」。こういった感じにならないだろうか。
この差は何か。責任の重さである。お腹を下させた場合友人が自分に対して切れるなどこの二者間で終わる。では、死亡させた場合は?自分だけでなく多くに関係者が悲しむと思う。その他葬儀など多くの手間もかかる。そういった不安からどうしようと思うのではないか。結局のところその感情の中心にあるのは自分ではないのだろうか?
そう考えるとどう思ったところで自己中心的な感情になってしまうのではないか。
こうなってくると、友人の死をどう割り切るべきかが大事になってくると思う。当然そんな簡単に割り切れるものではないと思う。しかし、自分を責める。反対に他者のせいにする。こんなことをしてもぐずぐずと起きてしまった過去を反芻するだけで何も前へは進めない。
今の自分は少なくともこう思うべきだと思う。
「私が持ってきたお菓子のせいで友人が死んでしまった。悲しいことだ。」
事実を事実として受け入れる。そしてその結果はどんなものであったかを認識する。たったこれだけである。
現に、自分の持ってきたお菓子のせいで友人が死んでしまった事実は変わらない。で、だからなんだというのだ。私のせいで友人が死んだのか?それはお門違いである。じゃぁそのお菓子会社を爆破するのか。それで気が済めばいいが、自分の人生を棒に振ってしまうだろう。
起こってしまったことはどうしようもない。管理人を冷血な人間だと思うだろうか?しかし、それで立ち止まっていては今度は自分が死んでしまう。前に進むためにはどこかで区切りつける必要があるのだ。
生き残った誰もがこれ以上悲しい思いをしない最良の方法が、この認識をして区切ることだと思う。
私も先輩のクビに対して、自分が入ったから切られたという認識をした。でもそれはそれ。今後もお局様とは一定の距離を保ちつつ仕事をしていくべきなのである。
過去は必ず劣化する。今は区切れないお局様もいつかはきっと前へ進んでくれるはずである。それまでは区切れる人間がうまく立ち回っていくことで、平和を演じて見せようと誓ったのであった。
……でもそれはそれとしてやっぱりうちの社長無能だよなぁ。
終わり

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